―”優しくされたら胸が震えた それだけの為に死んでもいいや” ―
amazarashi「雨男」
秋田ひろむの言葉を読んでいると、この人は”死にたい”のではなく”生きたい”のだ
これは、生きるために書いているのだ、という気がして、冷たく吐き捨てるような言葉なのに、なぜか心が温まるような、まるで寄り添ってくれるようなamazarashiの歌詞にはそんな優しさがあります。
絶望のなかにどこか光がある、希望がある、救いがある。これが彼らの掲げるアンチニヒリズムであり、そんな不思議な力がリスナーの心を掴んで離さないのでしょう。
言葉があることで広がる解釈の可能性
「amazarashiは歌詞が刺さる」「生活感があるから自分にも思い当たる」
amazarashiの歌詞に対して、ブログやツイッターなどにあがってくるリスナーの声からは、自分自身の出来事や思い出と重ね合わせて聴いてしまうという声がとても多く見られます。それは歌詞から滲み出てくる人間らしさのせいかもしれません。
歌詞の世界に書かれているストーリーは、秋田ひろむという一人の人間が感じてきた喜怒哀楽であったり、思い出であったりもします。また、その舞台は”日常”であり、歌詞のなかには実際にある地名が使用されることもあるそうです。
当初の歌詞について秋田ひろむは「過去の自分自身に向けて書いた」と度々語っているように、自分のために歌っていたそうです。外へ向けてというよりは内に向かっていくような、そんな意味も含まれていたのでしょうか。
―”失敗ばかりの僕等は 人より愛することが出来るはず
だからほら思い出してみるんだよ 忘れたいこと 忘れたくないこと” ―
amazarashi「美しき思い出」
これらが意図的にリスナーへ向けられたものではなかったとしても、10代から20代にある特有の悩みや苦しみ、虚無感、閉塞感といった感覚を知っている人は、きっと少なくないでしょう。
今もどこかでもどかしさに耐えている若者たちや、また、そんな過去を経験したことがある大人たちにとってamazarashiの歌詞は一つの理解者であるといえるのかもしれません。
amazarashiが影響を受けたと公言している作家、寺山修司もこうした”言葉の力”について語っています。
言葉の肩をたたくことはできないし、言葉と握手することもできない。だが、言葉にも言いようのない、
旧友のなつかしさがあるものである 寺山修司
出典 ポケットに名言を
文学との出会いにも言葉の力と繋がりを感じずにはいられませんね。
amazarashiの歌詞を読んでいると、なつかしい友人に悩みを打ち明けるような気持ちになるのは文学の世界から”言葉の力”を信じる想いを受け継いでいるからかもしれません。
変化と新世界、これからのamazarashi
数々のアーティストが音楽活動を続けていくなかで変化(成長)を遂げていきますが、これまでは自分自身のために歌っていたamazarashiにもバンドとしての変化が訪れます。バンド活動を始めた頃は孤独だった心がリスナーの存在に気づき、動かされていったのでしょうか、
2012年に発売されたアルバム「ラブソング」のインタビューでもすでに変化を語っています。
amazarashiの曲は恨みつらみとか、ルサンチマンが原動力になっていた部分が多かったのですが、今になってそういうものが薄まっている実感があって、もうそういう所で歌を作っている場合じゃないな、と思っていました。そこから次に進む為にここで歌っておかなければならない歌だと思います。
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